フィリピンの歴史をひも解く!中国・スペイン・アメリカ・日本との関係や宗教の遍歴

日本と同じ島国であるフィリピンにはどんな歴史があったのでしょうか?今回はフィリピンの歴史を中心に諸外国とのかかわりや宗教の遍歴をご紹介していきます。フィリピンのことをもっとよく知る上でも、フィリピンの歴史を詳しく学んでいきましょう。

 

10世紀以前 中国との交易


フィリピンの初期の住民は、新モンゴロイドに分類される「ネグリト人」だと考えられています。その後台湾やマダガスカル一帯の原始マレー系住民に追われて、山岳地帯に住むようになりました。この原始マレー人は灌漑や製鉄の技術を持ち込み、フィリピンに稲作を根付かせました。

紀元前500年~13世紀まで原始マレー人をはじめとして以下のような部族がフィリピンに移住してきたと言われています。

• ビサヤ族
• タガログ族
• イロカノ族
• パンパンガ族

3世紀には現在のカンボジアやベトナムとの交易が盛んになり、仏教やヒンズー教も一緒に入ってきました。特にスマトラ島やジャワ島の王国とは貿易や文化の交流があり、タガログ語の単語がサンスクリット語を語源とするものが多いのもこの理由からです。

10世紀になると中国とも交易が始まりました。その交易はフィリピン全土にも及び、物々交換によって交易品が輸入されてきました。

 

14世紀~ イスラムが到来


14世紀の後半には中国から中東を巡る海上交易をおこなっていたイスラムの商人がフィリピンにも上陸。これにより各地にイスラム教が伝わり、フィリピン南部諸島を中心にイスラム化していきました。このころのフィリピンには島ごとに様々な王国が誕生しています。
島名 王国名 詳細
ミンダナオ島 マギンダナオ王国 マレー半島の港市国家「ジョホール王国」が進出
スールー諸島 スールー王国 メッカからイスラム教をもたらし、フィリピン初のモスクを建設
1450年ごろにイスラム国家「スールー王国」を建国した
ルソン島 マニラ王国 フィリピンの都市国家の一つ
海洋国家のマライ系商人によりイスラム教が取り入れられた
ビサヤ諸島 セブ王国 中継貿易で栄えたビサヤ族の海洋国家
後のマクタン島の戦いの舞台にもなった

 

1521~1898年 スペイン統治時代


1521年に航海者マゼラン率いるスペイン船団がフィリピンに到着すると、火縄銃や大砲を用いてスペイン王への服従やキリスト教への改宗を要求。これに反発したセブ王国のラプ=ラプ王はマクタン島の戦いでマゼラン本人を殺害し、スペイン船団は退却に至りました。

1543年にはサマール島とレイテ島に再びスペイン船団が到着します。当時のスペインの皇太子であるフェリペによりこの地を「ラス・イスラス・フェリピナス(フェリピナス諸島)」と命名。これがのちのフィリピンという国名の由来となりました。

1565年にミゲル・ロペス・デ・レガスピ遠征隊がフィリピン諸島に到達。セブ島に植民基地を作ると1570年にはマニラを征服し、実質的なスペインによる植民地化が始まりました。スペイン植民地時代には太平洋を横断するガレオン貿易が開始され、マニラ⇔アカプルコ間の定期航路も開かれました。これは18世紀末まで継続しています。

 

中国人がフィリピンに流入

ガレオン貿易が活発になるにつれて貿易を仕事にする多くの中国人がフィリピンに流入してきました。

これまで原住民が営んでいた大工や漁師、石工や靴屋など様々な産業に中国人が進出。次第にフィリピンの経済を中国人が牛耳るようになるとスペインの脅威になると感じた行政官により、マニラを囲む城壁の外側に住むように命じています。

当時の中国人コミュニティは「パリアン」と呼ばれ、1790年までに9度にわたってパリアンが虐殺されてきました。

 

ローマ・カトリック教が広まる

スペイン植民地時代には、ローマ・カトリック教の布教が盛んに行われました。その結果として今でもセブ市内には様々な場所にカトリック教会を見ることができます。

しかしミンダナオ島やスルー諸島に住む原住民が多く信仰していたイスラム教の教徒による抵抗が勃発。これは「モロ戦争」と呼ばれ、19世紀末のスペイン撤退まで尾を引きました。

 

1898~1946年 アメリカ統治時代


1896年にはフィリピン革命が勃発。この革命は失敗しましたが、1899年にはスペインからの独立宣言を行いました。しかし米西戦争の結果、フィリピンを占領したアメリアはその独立を認めずに植民地支配を開始するようになりました。

1902年からアメリカはフィリピン統治を本格化させ、アメリカ主導の元にこのようなことを行いました。

• 議会の開設

• 形式的な自治を承認

• 学校教育を通じた英語の普及

植民地フィリピンで作られた安価な商品がアメリカ本土に持ち込まれるとアメリカ国内の産業を圧迫するという懸念から、フィリピンの独立を認める動きがみられ、1934年には「フィリピン独立準備政府」が立ち上げられました。

 

国名を変えなかった理由

フィリピンがフィリピン共和国として正式に独立したのは1946年の7月4日。

当時の統治者であるスペイン人との混血者はフィリピンで生まれたスペイン人として、国内の上流階級の大半を占めていました。日常的にスペイン語を話すなど誇りを持ち続け、スペイン皇太子が名付けたフィリピンという国名を存続させようと考えたことから国名を変更しませんでした。

今でも政治家や富裕層の中にはスペイン人の血が流れているということを誇りだと考える人々が多いとされます。

 

1942年~1946年 日本軍占領時代


日本軍による真珠湾攻撃から太平洋戦争が始まると間もなく、ルソン島の米軍基地を日本軍が爆撃。日本によるフィリピン侵略が開始されました。日本軍による捕虜虐待事件「バターン死の行進」もこの時期のことです。

またマニラを占領すると日本軍による軍政が開始され、日本に協力することでアメリカからの独立が可能になると考えた反米活動家により親日政権が樹立されました。

一方のアメリカ軍は1944年にレイテ島に上陸、翌年には日本軍がマニラから撤退する際にフィリピン民間人を巻き込んだ「マニラ大虐殺」が発生。これにより第二次世界大戦で犠牲になったフィリピン人は110万人にも達しました。

日本が敗戦した大事二次世界大戦後、フィリピンの主権はアメリカに戻りましたが、1946年7月4日にアメリカから独立してフィリピン共和国が成立。これによりフィリピンの実質的な植民地支配状態は解消されました。

 

1946年以降 フィリピン共和国でのマルコス独裁政権


大戦後フィリピン国内では「フクバラハップ」と呼ばれる抗日組織が農村運動と共に力を持ち、政府軍と各地で戦闘が繰り返されました。当時の国防相による討伐政策により壊滅に至ると、1956年には日本とフィリピンとの国交が回復。

1965年に国民党から大統領になったフェルナンド・マルコスにより独裁政治が行われました。大統領の三選を禁止していた憲法を改正してまで独裁政権を維持し、輸出入を非課税にするなど外国資本を導入するための様々な政策を展開しました。

しかしマルコス政権が長期化するに従って強権ぶりや政府の腐敗が目立つようになりました。1983年の「アキノ暗殺事件」を機に不満が噴出し、エドゥサ革命によりマルコス夫妻はハワイに亡命しました。これによりフィリピンの民主化が急激に進み、現在に至ります。

 

ピノイとチノイ

スペイン統治時代にフィリピン国内に流入した中国人は、1975年までフィリピン市民権を持つことを許可されていませんでした。

しかし中国人は自分たちの存続のために積極的にフィリピン人の富裕層との結婚を進め、多くの「中国系メスティーソ(混血)」たちが生まれました。これがフィリピン国内で中国系の富裕層が多い理由です。

現在では中国系の人口は全体の1.2%にまで及びます。

純粋なフィリピン人は自らを「Pinoy(ピノイ)」と呼ぶのに対して、中国系フィリピン人を「Tsinoy(チノイ)」と呼んでいます。これは中国系フィリピン人がスペインやアメリカ、日本などとの戦いの中で、ともに戦ってきたという親愛の気持ちの表れだと言えるのではないでしょうか。

 

まとめ


フィリピンにはスペイン統治から始まり、アメリカや日本という外国から絶えず侵略されてきた歴史があります。さらに第二次世界大戦後はマルコスの独裁政権により、フィリピンが名実ともに民主化されたのはつい20年前。またフィリピン国内の信仰も歴史と大きくかかわっていることが分かりますよね。

現在は親日国として知られているフィリピンですが、日本軍占領下では捕虜虐待事件やマニラ大虐殺という現実があったことも、私たち日本人は忘れてはなりません。